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ベルリンの壁建設50年‐(1)ZDF"Morgenmagazin"中継-その1:フリードリッヒ通り駅

今回のベルリン滞在では、8月13日というベルリンの壁建設開始から50年にあたる日が入っており、ドイツ政府による壁の犠牲になった人たちの追悼行事をはじめ、いろんなところで行事、展示など開催されていた。

テレビも、もちろん壁50年関連の番組をいろいろやっていて、ドイツ語はよくわからないが画像を見ながら考えさせられるものがいろいろあった。RBB(ベルリン‐ブランデンブルグ放送)で、NHKで言えば「サンデースポーツ」にあたる番組でも「壁建設のヘルタ・ベルリンへの影響」と思われる番組をやっていた。

ZDFの”Morgenmagazin”(注1)というNHKで言えば「おはよう日本」にあたる番組でも8月第2週は、壁にちなんだ場所からの中継をやっていたが、テレビを見てて「お、ホテルからすぐだろ」(注2)という場所があったので、ただの野次馬根性で行ってきた。
(注1)どうしてARDとZDFが朝同じ映像なのがずっと謎だったのだが、ドイツ語版WikipediaをWeb翻訳の助けを借りて見たら、1週交代でやっている…ということでいいのか。
(注2)ベルリン滞在は旧東地区と西地区両方泊まることにしており、東地区はCasa Camper Berlinに泊まっていた。

○フリードリッヒ通り駅(Bahnhof Berlin Friedrichstraße)
限られた東西ベルリンの行き来ができる場所(東西ドイツ両国民と外国人)であった駅で、また駅のそばには「涙の宮殿」(Tränenpalast)と呼ばれた検問所があり、さまざまなドラマの舞台となった場所でもある。
壁建設50年に際しても、駅構内に東西の通路であった歴史の関連の展示があり、また「涙の宮殿」も取り壊しの是非の議論のあと周辺の工事を経て負の歴史の展示に向けて準備を始めているようであった。番組では、構内の展示で政治的理由などから東→西に出国させる際にもこの駅を使っていたという説明にあった、まさにその人を呼んできてインタビューをしていた。

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ということで、ホテルから走って見に行ったら中継車があってケーブルをたどっていくと展示があった、
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出国の査証や出国の様子。
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こんな駅の構造になっていて、どうにか西側へ行こうとした人たちがいた。中央は中継に登場された方の書類。

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DDRへの入口・出口はこの経路だったと示すピンクのラインが引かれていた。「涙の宮殿」の外観。

フリードリッヒ通り駅はこういう歴史を持つ駅だが、Sバーンが地上部分と地下部分がありという構造もあり、DDR時代に比べ格段にきれいになっているが構内が何か暗い(今回の節電で日本の能天気なマスコミが言っているような「エコ」とかいう問題ではないと思う)。
1990年7月に行ったときは、Sバーンは東西直通にまだなっておらず、フリードリッヒ通り駅の地上部分は行き止まりとなっていたことを思い出した。

なお、中継の内容はここ(リンク)から見ることができる。
# by nem_ran | 2011-08-29 00:43 | 交通機関

さらばシェーネフェルト空港

周知のとおり、ベルリンで現在旅客の利用に供されているのは旧・西地区のテーゲル空港(TXL)と旧・東地区のシェーネフェルト空港(SXF)、さらには2008年10月まではテンペルホーフ空港(THF)があった。これらはベルリンという都市の特殊事情によるわけだが、この集約化などを目的に、現在、シェーネフェルト空港を拡張するかたちで、ベルリン・ブランデンブルク国際空港(BBI)が建設中で、当初の完成予定2011年10月が延び、さらに延び、正式にいつかはアナウンスされていないようだ。航路をどうするかもめているようで、滞在中にも抗議活動をする人をRBBのニュースで見かけた。

私が1986年に初めてベルリンに行ったときは、東西とも移動はバスだったので、初めて空路で入ったのは1990年7月である。以前にも書いたとおり(リンク)、ベルリンの壁崩壊で突如ブームになった東欧旅行のツアーで行った時である。ポーランド航空のチャーター便で、成田→モスクワ(給油)→ワルシャワと飛び、さらにワルシャワ→ベルリン・シェーネフェルトという経路である。
1990年7月という、通貨統合されて、でもまだDDRは最後の日々という特殊な時期で、先にも書いたが、DDRは駅とか空港とか撮影禁止だったので、うっかり撮影して現場の警備とトラブルになってもいけない、と空港を出てバスに乗ってから1枚撮っただけである。
その思い出の空港を一目見てこようと、わざわざ行ってきた。

行きはOstkreuz駅で乗り換え。Ostkreuz駅は絶賛大工事中。
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Sバーンの空港に直行するS9は行ったばかりだったので、環状線に乗ってノイケルン(Neukölln)でUバーンに乗り換え(U7)、終点Rudowまで行く。
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ここから空港直行のバスX7が出ているので、雨の中待つ。
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雨が降ってたのと、Uバーン車内も駅周辺もけっこうヤバそうな雰囲気だったのでちょっとしか写真を撮っていない。
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バスは空港までノンストップ。空港に到着。

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もちろんメンテナンスはきちんとされているが、変えようもないのがハコとしての設計と階段の手すりとか床の質感。ああ、いかにも社会主義様式建築という質感である。

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ここで、トラベラーズチェックを西ドイツのマルクに両替した。

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この先に止まったバスに乗って、ツアーがスタートした。

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テーゲル空港にもこんなカレーヴルスト屋がある。
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向こうは昔はなかったターミナル。いわゆる格安航空会社がもっぱら利用しているようだ。

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そうあまり見るところがいっぱいあるわけでもないので、市内へ戻ることにする。本当はパスポートチェックのブースが昔のままなのか(監視用に下が映る鏡はそのままのかとか)など、気になったが乗客ではないので見れない。

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徒歩で5分くらいかかるターミナルからDB・Sバーンの駅までの通路、今は屋根があるが、昔はそんなものはなくて、21年前バスの中から見たときも、こんなところ冬歩くのは大変だろうな、と思った記憶がある。

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駅。エスカレーターとかはなくて、長いスロープを荷物を引っ張ってホームに上がることになる。

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ホームのコンクリの継ぎ目が、ああDDRだなあという感じ。
(DDR時代はアウトバーンもこんな継ぎ目だらけだったので、バスがドッカンドッカンしながら走っていた。)

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駅に着いてターミナルに向かう人たち。草取りしてないのは昔から。

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S9は20分ごとで、これに乗って市内へ。

次にベルリンを訪問するときは、新空港になっているのだろうと、一応さらばとしておくが、そうでなかったりして。
# by nem_ran | 2011-08-25 01:14 | 交通機関

ボロス・コレクション(Sammlung Boros)

ボロス・コレクション(Sammlung Boros)は、ガイドブック「Lonely Planet」で知って、また日本語のブログ等でもこれを紹介したのがいくつか読んで、気になっていた。金土日のみの完全予約制の1回10名程度のガイドツアーでの見学で(ドイツ語、英語。予約はサイト(リンク)から)、予約が大変という話だったが、運よく取れて行くことができた。

もともとこの建物は、第二次大戦中に1941~1942年にかけて防空要塞(ドイツ語ではBunker、そびえ立つ構造物なので「防空壕」よりは、防空要塞、地上防空室と呼んだほうがいいのだろう)として作られたものである。第2次世界大戦中ドイツにはこの種のものが作られ、現存するものもいくつかあるようだ。
戦後、ソ連軍に接収され、強固な構造のため壊すこともできず、DDR(東ドイツ)時代には空気も通りかつ厚い壁があるという構造を生かし、国営企業(VEB Obst Gemuse Speisekartoffel)が当時貴重品の果物(バナナとか)を貯蔵するのに使ったとのこと。

統一後は各種イベントに使われた後、現代美術のコレクターでもあり企業家(広告関連)のクリスティアン・ボロス(Christian Boros)氏が2003年に購入し、改造して2008年から予約制の見学ツアーの形で自分のコレクションを公開している。上部にはボロス氏が住むプール付きのペントハウスも作られており、見学したときも住居へ行く階段をガイドが紹介していた。
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(上部がそのペントハウス)
余談だが、これを書くために検索していたら、2005年6月にロイターからおもしろニュース的扱いで「ヒトラーの命で建設されたベルリン防衛の防空要塞、豪華マンションに変身」として配信されていて、2ちゃんねるでスレッド(http://mimizun.com/log/2ch/newsplus/1118911682/で閲覧可能)も立っていたことを知った。確かにお金があるだけでなく、ある種の「物好き」でないと、できない「道楽」ではある。

場所は、ミッテのラインハルト通り、フリードリッヒ通り(Friedrichstrasse)駅で降りて駅を背にしてフリードリッヒ通りを北上し、右手にフリードリッヒ・パラストが見えるあたりを左に曲がったところ(U6のOranienburgerstrasse駅との中間地点あたり)。大きな構造物なので歩けばすぐ気が付く。
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建物はいかにもナチス様式の作りで、本来の目的と相まって、威圧感のある建物である。
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本当に入って大丈夫なのだろうかとおそるおそるドアを開ける。
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中に入り受付をして見学料(10ユーロ)を払い、水、コーヒーが用意された場所で待つ。参加者は自分以外は白人で、みんな気合が入った個性的な格好をしたアート、おしゃれ方面のオーラを出す人たちばかりで、ちょっと気後れした(笑)。

コレクションは撮影禁止なので、写真はないが、1箇所、広めの穴があり隣のホテルがよく見えるところから、次の見学のグループの様子が見えた。
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展示されている作品についての評価は人それぞれだろうが、この展示会場の構造を生かす形の作品もあったりするのが面白いと思ったのと、作品についての説明だけでなく2000人収容できたという建物本来の目的について、非常時の出口を示す矢印や空気穴など説明もあったりして興味深かった。
現代美術好きだけでなく、大型構造物、軍事マニアにもおすすめの場所である。
# by nem_ran | 2011-08-21 22:46 | 美術館

ベルリンへ行ってきた

当ブログ、しばらく更新してなかった。個人的に精神的にダメージを受けたできごとがあったり、大震災で生活、仕事で大きな影響を受けたり(地震・津波の大きな被害、原発事故による影響を受けた方々からすれば、何言ってんだボケ、というレベルではあるが)、仕事が忙しかったりで、放置状態であった。
8月になって、やっとそれらを振り切って、夏休みにベルリンに行ってきたので、そのネタをいくつか書いてみたい。

どうでもいい話だが、ルフトハンザ、フランクフルト乗換でヨーロッパ各地に行く日本人があれだけいるのに、ベルリンに行く人を見かけない。自分のほか、行きの便は他に5人、帰りの便は1人しか目視で確認できなかった。
やっと滞在5日目にフリードリッヒ通り駅近くで中年女性と中学生くらいの息子、学生5人グループを見かけるまで、日本人観光客を確認できなかった。
もっとも15日にKaDeWeに行ったらベルリンにこんなに日本人観光客来ていたの、とびっくりしたので、自分がたまたま会わない場所に行っていたのだろうし、お買いものはみんなKaDeWeに行くのだろう。

また、さらにどうでもいい話だが、フランクフルトでのパスポートチェックのとき、職員に人生で初めて入国目的を訊かれたが、その際「最終目的地はどこか」と尋ねられ「ベルリン」と言ったところ、「ベルリンに何日いるのか」とまた尋ねられ「8日間」と答えたところ、「ベルリンに8日間?他の国には行かないのか」と不思議がられた。

こんなこと書いていると、自分はマイナー好みだと主張する、ただの中二病の中年だが(事実そうかもしれない)、もっとベルリンの魅力を知る日本人の方が増えてもいいのにと思う。
# by nem_ran | 2011-08-19 01:31 | 旅行

「鴎外の恋人~百二十年後の真実~」など

感想その他を書こうと思ったりしていたのだが、いろんな事情やら飲みすぎやらでそのゆとりがない。

NHKの「ハイビジョン特集」2本のうち、「鴎外の恋人~百二十年後の真実~」は期待していたより面白く、先行の研究を踏まえ、「エリス」のモデルの家系を調べにマグデブルクまで足を運ぶなどさらに丹念に調べてあり、「エリス」のモデルの孫に「おばあさんは日本人と顔が似ている」という無茶振りと、「舞姫」のあらすじの簡易版再現ドラマ以外は興味深く見ることができた。
再現ドラマは、何でこんな蛇足があるのかと思ったが、結局買ってしまった日本放送出版から出た同名の書籍を読むと、「舞姫」は高校の教科書に載らなくなっており話の説明が必要だろうから、という思いやりのようだ(ただ、レポーターの華恵というエッセイ集も出しているモデルは、「高校のとき教科書で読んで、主人公はなんてひどいんだろうと思った」と言ってたが。)
なお番組の内容については、Wikipediaの「舞姫」の項に反映されており、またその項の「脚注」にある朝日新聞の記事へのリンク(http://www.asahi.com/culture/update/1111/TKY201011110203.html)が詳しい。

「ハイビジョン特集」もう1本の「伯林 100年の物語」のほうであるが、戦中、戦後のベルリン・フィルおよび音楽家たちの苦難の内容は、映画「帝国オーケストラ」(別の邦題:ベルリン・フィルと第三帝国)のほぼコピペ、それにちょっと戦後のエピソードを付け加えてみましたと言ってもいいくらいである。あの映画にも出演した、ヴァイオリン奏者のハンス・バスティアン、コントラバス奏者のエーリッヒ・ハルトマンの両氏がさらにお年を召されたのを確認できたのと、バスティアン氏の娘婿が現・ベルリン・フィルの第1ソロヴィオラ奏者のナイトハルト・レーザ氏であるという豆知識を知った以外はあまり新規情報はなかった(もちろん同じネタを違った角度から取り上げるというのはアリだが、この番組の場合カットまで強いデジャブ感がある。)
「帝国オーケストラ」になかったネタとしては、DDR(東ベルリン)出身の第2バイオリンのホルム・ビルクホルツ氏(Holm Birkholz)の話である。ビルムホルツ氏は東ベルリンで勉強したあと、ヴァイマール・シュターツカペレ、ライプツィヒ放送交響楽団のコンサートマスターのポストを得るが、DDRにおけるいろんな制約、また通報者となることを頼まれたこと、また西ドイツの女性と交際するようになったことなどかた、亡命し、ベルリン・フィルのメンバーとなった。男性が東の国民、女性が西の国民だとだと、先日読んだ小説『階級の敵と私』の逆パターンではないかと、交際・亡命のいきさつその他の突っ込んだ話を期待していたのだが、さっさと通り過ぎてしまった。

もう一つの主人公である、ブレヒトの妻、娘、孫の話は、私自身は大した知識は持ち合わせていないので、DDRで特権階級であったブレヒト、そして妻ヘレーネ・ヴァイゲルも社会主義を掲げた政府に違和感を覚えるようになり(たとえば1953年6月の「暴動」)、娘以降では自由化運動に加わるものも出てくる、というのは、まあそうなのだろうなと思う。
(昔の日本の新劇関係者で、ドイツ民主主義共和国マンセー、ブレヒトやベルリナー・アンサンブルをやたら持ち上げる人が散見された時代を知っているもので、偏見入って皮肉っぽい書き方になってます。))
いずれにせよ、このテーマも取材対象への突っ込みがあまり感じられず、おそらくちょっと詳しい人が見れば、今さら何を…と思うようなクオリティではないか。

ということで、見る前の期待度は舞姫<伯林であったのだが、見終わっての満足度は舞姫>伯林である。

なお、今月、NHKBSハイビジョンでは、「BSベストオブベスト」と称して、過去の好評を得た(らしい)番組の再放送ばかりやっているのだが、その一環で28日こんなものもある。
12月28日(火)午後7時40分~
世界・わが心の旅「ベルリン 生と死の堆積」旅人 小田実
小田実さんは1985年から1年半ベルリンに滞在し、ベルリン自由大学で教え、世界各国から集まってくる前衛芸術家たちと親しく交際した。 6年後、小田さんは再びベルリンを訪れたが大きく変わっていた。 小田さんのベルリン体験を伝える。
(初回放送:BS2 1993/11/21)

これは、小田実が亡くなったとき追悼として再放送したのを見た。小田実という人物には、特に政治的言説についてはいろんな評価があり、私自身もこの番組の中での発言について違和感を覚える部分が正直言ってある。ただこの番組は、ドイツ再統一後でベルリンをはじめ旧東ドイツエリアがあちこち工事中で、社会主義時代の姿を色濃く残している時代の映像資料としては貴重であると思う。更地に近いポツダム広場、DDR時代のままのSバーンが印象的である。
# by nem_ran | 2010-12-28 02:25 | テレビ

ヘルベルト・ケーゲル没後20年に-DDRの指揮者たち

DDRの産業で国際競争力があり、また輸出先で心から喜ばれ、広告塔としての役割をになったものの代表が、いわゆるクラシック音楽であろう。
日本においても、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団が国交のない1961年に当時のカペルマイスターのフランツ・コンヴィチュニーと来日したのをはじめ(初来日の模様についてはこちらを参照)、オーケストラ、オペラなど演奏団体、また指揮者、演奏家が単身で来日し日本のオーケストラとの共演をしている。

日本では、音楽評論家・ライターの中には、今では考えられないことだが社会主義国の演奏家というだけで(資本主義に毒されていないとか)ソ連、東欧の演奏家を評価する人たちもおり、もちろんそれだけではなく「本場」の音楽として日本でも大歓迎され、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のドイツ語版Wikipediaの項()には、初来日時「日本へようこそ」の垂れ幕とともにスカンジナビア航空機の前での記念撮影の画像が掲載されている。このときの同管弦楽団の第一コンサートマスターであったゲルハルト・ボッセは歓迎の様子を語っているが(リンク)、その後もたびたび来日し、後年、日本女性と結婚し日本に住まうこととなる。

音楽家にとってのDDR生活は、同業者にもシュタージの協力者がいる(前掲のボッセのインタビューでも言及されている)、あるいは協力者となることを求められるなど信条面の精神的負担、また演奏する曲目が国の方針に沿ったものであることを求められ、最悪の場合は活動できなくなる、海外での外貨の稼ぎが国に召し上げられることの金銭面の不満など、各種ストレスの多いものであったことは想像に難くない。中には西側への亡命を選択する者もいた。
一方で、国とうまく折り合いをつければ、ぜいたくはできなくとも一定の生活は保障され、国内の同志が自由に行けない西側にも行くことができ、またオーケストラ、オペラなどでポストを得て、国から勲章・称号をもらって国家内のステータスを得られれば、上記のストレスに眼をつぶればそれなりに快適な音楽家生活を送ることができた。また、伝統あるオーケストラ、オペラが自分の手のうちにあるということは何物にも代えられない喜びであり、指揮者オットマール・スイトナーのように非DDR・非兄弟国の国民(オーストリア)でありながら、DDRでポストを得て主な活躍の場が東側であった人物もあった。

これは、もちろんそうした人たちを非難するために書いているのではない。映画「善き人のためのソナタ」では劇作家のパートナーである女優が、「舞台に立てなくなるのはつらいだろう」と脅され、結局自白してしまい、その良心の呵責から死を選ぶこととなる。音楽家、俳優のような表現者にとっては、活動の場がなくなるということは身を切られるようにつらいことであり、また自分の活動の拡大、場合によってはライバルへの嫉妬心など合わせると、自分のプレゼンスが増すことへの誘惑は排除できないだろう。指揮者スイトナーもドキュメンタリー映画(邦題「父の音楽指揮者スイトナーの人生」、原題:Nach der Musik)の中で、「東ドイツで活動するのは悪魔に魂を売るようなものだと周りから非難を受けたが、豊かな響きを持つオーケストラを操れることは大きな魅力であった」(大意)と述べている。

で、前置きが長くなってしまったが、11月20日に没後20年を迎えたヘルベルト・ケーゲルについてメモ書き程度に書いてみたい。

ヘルベルト・ケーゲル(Herbert Kegel, 1920年7月29日~1990年11月20日)は、ドレスデンに生まれ、第2次世界大戦による負傷でピアニスト志望から指揮者志望に転じ、指揮をカール・ベーム、作曲をボリス・ブラッハー、パウル・デッサウに学ぶ。ライプツィヒ放送交響楽団(現・MDR交響楽団、1953~1977)、ドレスデン・フィルハーモニー(1977-1985)のポストを歴任、ライプツィヒ音楽大学(Hochschule für Musik Felix Mendelssohn Bartholdy)ドレスデン音楽大学(Hochschule für Musik Carl Maria von Weber Dresden)でも教鞭をとった。
以上が略歴であるが、モーツァルト、ベートーヴェンをはじめとする伝統的ドイツ音楽のレパートリーに加え、当局には必ずしも歓迎されない20世紀の音楽(いわゆる「現代音楽」も含む)の紹介に積極的で、録音も多く残されている。
またライプツィヒ放送合唱団(現・MDR放送合唱団)の指揮者を1949年から1978年にわたって務め、レベル向上・維持に寄与したことでも知られている。Verein der Freunde des MDR
Rundfunkchors(「MDR放送合唱団友の会」とでも訳すのか)のサイトには、ケーゲルの生涯と当時の写真が載っているが(http://www.freunde-mdrrundfunkchor.de/Chor/wirerinnern)、社会主義国家の建設にむけ希望にあふれる音楽家たち風の写真もある。

ケーゲルは単身でも日本に何回か客演し(日本での演奏記録はこちらを参照)、私は実演には接することはできなかった日本の音楽ファンに親しまれる存在であった。そのケーゲルが、ドイツ統一直後の1990年11月にピストルで自殺、というニュースを1990年末に音楽雑誌で目にして、事故、病気で亡くなるのとは別の大きなショックを受けた。しかも、自殺の原因については「統一後のドイツに不安を感じて」というのが当時挙げられていたから、なおさらである。

ケーゲルの伝記は2003年に刊行されているが(Helga Kuschmitz, Herbert Kegel - Legende ohne
Tabu. Ein Dirigentenleben im 20. Jahrhundert, Verlag Klaus-Jürgen Kamprad, 2003)、日本に熱狂的ファンがいるとはいえ翻訳は望めそうもないので、死に至る事情は詳しいことはわからない。各種書籍、記事での内容を総合すると、もともと鬱病があり自殺念慮を抱いていたことがあることに加え、社会主義者であった彼には東ドイツの消失・西ドイツへの吸収は耐え難いことであったようで、また音楽家としての現実的問題として仕事の場がなくなっていき、手塩にかけたライプツィヒ放送交響楽団・合唱団も存亡の危機に立たされ、これらが重なるかたちでピストルによる死を選んだようである(伝記で記載されている死に至る事情についてはこちらを参照)。

ライプツィヒ放送交響楽団は統一による放送局の再編により、ライプツィヒのラジオ・フィルハーモニー(Radio Philharmonie) と合併し、合唱団は名を存続したが、ケーゲルはドイツでは半ば忘れられた存在となっていたようである。しかし、日本、アメリカなど本国以外には熱狂的ファンもおり、没後20年を迎え日本ではCDの再発売も予定されている。

なお、ケーゲルはライプツィヒ・オペラの歌手との間に1男をもうけたほか、1966年から1983年まで夫人であったイタリア人ソプラノ歌手チェレスティーナ・カサピエトラ(Celestina Casapietra)との間に1男をもうけ、それぞれロック・ミュージシャン(Uwe Hassbecker、DDR産のロックバンド「Silly」のメンバー)、テノール歌手兼俳優(Björn Casapietra)になっている。2人とも画像を見ると父親をしのばせる。
# by nem_ran | 2010-11-28 03:57

NHK BS-hi「ハイビジョン特集」のベルリン関連番組

NHKで番組告をやっていて知った番組と、それを検索して併せて知った番組。
(「ハイビジョン特集」のサイト(リンク))

ハイビジョン特集  「鴎外の恋人 ~百二十年後の真実~」
BShi 11月19日(金)午後8:00~9:30
今年は、森鴎外が処女作「舞姫」が発表して120年目に当たる。この小説は、鴎外がドイツ留学時代の体験を基にして書いたもので、登場する恋人“エリス”には実在したモデルの女性がいると言われている。しかし、鴎外は生涯ドイツ時代の恋人について、語ることも書き残すこともしなかった。そのため、その恋人についてこれまで多くの研究・調査、さまざまな議論がなされてきたが、その実像についての決定打がないまま今日に到っている。
今回、「舞姫」が執筆された東京・上野にある鴎外の旧居や、生誕の地・島根県津和野町でロケを行い、なかでも鴎外が恋人と出会ったドイツで、いまも残された様々な記録を発掘、ベールに包まれた恋人の謎を解き明かしていく。
番組は、改めて「鴎外の恋人」の実像に迫り、鴎外の文学や生涯に新たな光を当てる。その過程で出てくる新事実は、衝撃を持って迎えられるに違いない。
ナビゲーターは、モデルでありエッセイスト、現役の大学生でもある19歳の華恵さん。みずみずしい感性で、鴎外と鴎外の恋人を掘り下げていく。(上記リンクより)

どの程度、ベルリンロケがあるのかわからないが、いずれにせよベルリン映像が出てくるだろう。最近NHKの好きな、タレントとかが「ナビゲーター」として出てきて、その人物がやたら大写しになるのにげんなりで、番組予告でも悪い予感がしているが、そうならないよう天に祈ろう。「新事実」もそんなに驚くような内容の予感。

なお、この番組と同時に日本放送出版協会から同じタイトル本も出るというメディアミックス乙、である。
テレビマンユニオンとの共同制作で、本も、今野勉氏の執筆。(テレビマンユニオンの番組案内(リンク))

なお、まったくどうでもいい「わたくしと『舞姫』」の話。
今も続いているかは知らないが、私が中学・高校と通った学校で、私が高3のときから全学年の国語の時間で書いた作文・レポートでよかったものを集め文集にするということを始め、文集の大トリは私が書いた「舞姫」についての感想文であった(自慢入ってるか(笑))。そのころは「ウンテル・デン・リンデン」や「獣苑」は遠い世界の話で、まさか自分で歩いたり、「凱旋塔」に登ったりするとは思わなかった。もっと予想外は、ごくたまにしか小説を読まない人間になったことである。

ハイビジョン特集 劇的実験都市「伯林100年の物語」
BShi 11月30日(火) 午後8:00~9:30
今年、ドイツ統一20周年を迎えるベルリン。ヒトラーの時代、東西の分断、壁の崩壊と再統一と、劇的な運命を体験した都市の100年を、「権力と芸術家」という視点から描くドキュメンタリー。
分断の苦悩をようやく語るようになった芸術家たち、父や祖父の生き方を問い直そうとする子や孫の姿。番組は、ブレヒトの演劇とベルリン・フィルの音楽、それぞれの世界を生きた三代の芸術家家族の姿を交錯させながら、激動の時代の中で何が断ち切られ、何が守り抜かれたのかを描き出す。

こっちのほうが、今の自分の関心度合いが高いテーマで、ベルリン・フィル関係者はだれが出てくるかはわからないが、「ようやく語る」ようになった内容が楽しみである。

これも、検索したらテレビマンユニオンとの共同制作で、テレビマンユニオンのサイト(リンク)を読むと期待したくなる内容である。
# by nem_ran | 2010-11-16 02:55 | テレビ

『階級の敵と私』など

DDR時代の生活を描いた小説は、あまり目にすることがないが、こういう本が最近出たので書いておく。

階級の敵と私 ベルリンの壁崩壊ライブ
バーバラ・ボルバーン 著 / 落合直子 訳、未知谷、2010年11月
(出版社のリンク(ここ))

著者はいわゆる「ヤングアダルト」向けジャンルの作品をいくつか書いている、1964年生まれの旧DDR・ザクセン州出身の作家、兼ジャーナリスト・通訳(作家の公式サイトはこちら)による作品の翻訳。

作者が「かなりの部分において私の自伝的な物語」と言っている自伝的作品で、物語の記述はは1984年から1990年にわたり、出版社でつけたサブタイトルにある「ベルリンの壁崩壊ライブ」となっている。

内容は
傾きかけた社会主義政治、近くそして遠い「自由の国」西ドイツ……
党員の父、自由思想の母、退屈な学校教育、それぞれな友人たち……
東ドイツで、少女は大人たちに憤り、「西」へ憧憬れ、自由を希い……
「西=階級の敵」の青年と恋に落ち、そして猛烈に「壁」を憎む……

で(上記リンクより引用)、主人公の少女→若い女性は、旅行に出かけたハンガリーで西ドイツから来た青年と知り合い、恋愛関係になる。彼らに対し「東」側でも、また「西」側ででも家族・周囲が機会をとらえ、嫌がらせ行為をしたり、断念するよう説得したり。具体的にどうしたかは本を読んでいただきたいが、特に青年のほうの母親はウソまでついて必死で阻止しようとしており、また今なお残る「西」の人の「東」に対する差別意識を窺わせるものである。

また、小説が「アンネの日記」と同様に、主人公が日記に向かって語りかける設定で、DDRライフが衣食住にはじまり、学園生活、文化と仔細に記述されている。主人公はライプツィヒのカールマルクス大学で外国語を勉強するのだが、どの言語を選択するか本人で決められなかったとは知らなかったし、ライプツィヒという土地柄の見本市でのアルバイト、「友好国」から来た観光客の応対のエピソードなどは興味深かった。
先日、「シュピーゲル」の英語版サイトの記事で、統一20年を経て残っているDDR製品として、スパークリングワインの「赤ずきんちゃん」が紹介されていたが、この小説では特権階級の宴会の後の残り物をいただいてしまうという描写で
「赤ずきん」のシャンパンでなく、フランス産のシャンパンががぶ飲みされていた
としてその名が登場する。

今年度上期のNHKラジオ第2放送「まいにちドイツ語」では、夫婦が改革への志は共有しつつも、国から出る・出ないで別れた夫婦というストーリーになっていた。この作品でも上記に引用したとおり、DDR体制への立ち位置が夫婦間で夫=党員、妻=自由志向もともと違っており、妻は「西」の男性と恋愛をして、ベルリンの壁崩壊とときを同じくして家庭も崩壊、ということになる。

なお、巻末には"著者による「語句の説明」"というものがついていて、DDR用語について解説があるが、そもそも「階級の敵」という題名を見てもピンとこない人が多くなっている今、とても貴重である。

翻訳については、自然な若い女性の口調にするのは難しいと思うのと、いわゆる「誤訳」とは違いこれという正解があるわけでもないので、細かい論評は控えておくが、固有名詞については一般に用いられているものを使用したらいいのではと思った。
((西)ベルリンの「カイザーヴィルヘルム教会」が「西ベルリンの追憶教会」だったり、日本で公開されたときのタイトルが「コックと泥棒、その妻と愛人」であるグリーナウェイの映画」が「コックと泥棒と奥さんと恋人」だったり。「ソリダリノスチ」と表記せずに、ポーランドの「連帯」でいいのではないか。)

前出の「語句の説明」も、硬い翻訳調の文体で、書き直したくなるところがあったのが少々残念。過日読んだ「シェリフ・テディ」と同じ出版社なのだが、編集者は注文をつけたりしないのだろうか。

とはいえ、DDRライフに興味がある方には、ぜひ一読をお勧めしたい。厳しい出版事情の折、こういう本を出してくれただけでも感謝、でもある。


なお先日書いた阪大リーブル『ベルリン・歴史の旅 都市空間に刻まれた変容の歴史』(平田達治、大阪大学出版会)も無事到着した。


詳しい内容はここ(リンク)をご覧いただくとして、章立ては次のとおり。

序 『舞姫』のベルリン
Ⅰ 中世から始まるベルリンの歴史
Ⅱ 凱旋パレードの舞台としてのリンデン街
Ⅲ 世紀末ベルリンと第一次大戦の敗北
Ⅳ 寛容と迫害の都市空間
Ⅴ 歴史の激動に翻弄されるベルリン
Ⅵ 壁の崩壊と再統一

著者は1970年に初めてベルリンの地を踏み、その後頻繁に訪問するようになった。訪問時に入手した書籍等から取られた図版、著者自身による撮影も含む写真がふんだんに掲載されており、見ごたえがある。また、「壁」時代のベルリンの話だけでなく、ベルリンの歴史がバランスよく記述されており、歴史を概観するのにも便利である。
あとがきで、日本ではウィーンについての関心は高く本もたくさん出ているのに、ベルリンに関する関心は高くなく、中欧ツアーでもベルリンが旅程に入っているものが少ないことを、著者は嘆いているが、全く同感である。






# by nem_ran | 2010-11-14 23:17 | 書籍・雑誌

ドイツ再統一記念関連出版など

10月3日の再統一関連ということだろうが、いくつか本が出版されている(一部予定)。

○『ドイツ統一への道』リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー、永井清彦訳、岩波書店(9月29日)
版元の紹介文は
今秋統一20周年を迎えるドイツ.統一ドイツ初代大統領のヴァイツゼッカーが,ドイツの過去・現在・未来を語る.分裂の時代を40年以上過ごしたことの意味,統一にいたるまでの東西の交流,歴史の必然,統一後の経済格差や制度の違い…….「真の統一」とは何か,冷戦のかけらを抱える北東アジアにおいて,このメッセージは重い.

で、いい意味でも悪い意味でも岩波書店らしい、と思う。

○『ベルリン・歴史の旅-都市空間に刻まれた変容の歴史』平田達治、大阪大学出版会(10月中旬発売予定)
著者はヨーゼフ・ロートの翻訳などをしている大阪大学名誉教授で、
内容は版元によると(リンク
ブランデンブルク門とリンデン街を主な舞台に展開
する近代ベルリンの高揚と奈落の歴史…。
『舞姫』、度重なる凱旋行進、戦争への動員、ナチスの熱狂、爆撃と荒廃、分断。
長年におよぶ著者の文化的フィールドワークの成果。写真・地図多数掲載。

ということで、特に写真、地図に期待したい。


○『Hof――ベルリンの記憶』橋口譲二、岩波書店(10月28日刊行予定)
内容については岩波書店のサイトに「編集者からのメッセージ」((リンク))があるが、1992年から1994年にかけて撮影したミッテ地区のホーフを撮影した未発表の写真を収録である。
ホーフは今日、おしゃれスポットとしてとり上げられることも多いが、統一直後は修復が必要な(あるいは解体するよりしょうがない)状態で、ベルリンを撮影し続けている写真家によるものというだけでなく、そういう意味で貴重な写真集であろう。

なお、本日(10月2日)の、NHK総合の「海外ネットワーク」(午後6:10〜6:42)は「▽ドイツ統一20年 ▽強い経済の背景は?キャスター現地へ」ということで、二村キャスターがベルリンから伝える予定。この番組、以前は記者がキャスターでスタジオゲストも専門家のみだったのが、4月からキャスター(記者)にアナウンサー、芸能人等のスタジオゲストというつくりに番組が改悪されたのだが、とりあえず今日は夜外出しているので録画予約だけはしていこう。変なゲストが出ませんように。
# by nem_ran | 2010-10-02 09:40 | 書籍・雑誌

1990年の「東欧」への旅(その3:ドレスデン、その他の国)

続きを書く時間が取れないうちに、ドイツ統一20年になってしまうではないか。
ということで、むりやり続きを書いて終わらせてしまう。

○ドレスデンとマイセン
ベルリンからはバスでドレスデンに向かった。前回の訪問が1986年で4年ちょっとしか経っていないので、季節が冬でなく夏である以外は、外観の面でそうそう変わった印象があったわけではなく、相変わらず街全体が黒ずんでいた。とは言え、ここも自由化により観光客が急増し、賑わいの面では大違いである。

ドレスデンに入る前、マイセンに寄って陶磁器の工房を見学した。マイセンの陶磁器は関係者の努力でDDR時代にも国際競争力のある品質を維持し、西側でも販売されており、また学生の身では高価で手の出ないものであった。とはいえ、マイセンの街は味わいがあるを通り越してかなり痛んでおり、4年前と同様、ベルリンとその他の都市の社会資本整備の格差を改めて痛感した。
(マイセンの町並みは、統一後復興活動を行った人たちがいたことを昨年、NHKの番組で知る。)


○その他の国
その他行った国、都市は、
・チェコスロヴァキア(当時)…プラハ
・オーストリア…ウィーン
・ハンガリー…ブタペスト
・ポーランド…ワルシャワ
である。

いくつか当時ならではの思い出を箇条書きで。
・チェコのオーストリアとの国境近くのZnojmoという街は、古い町並みが保存され、昼食をとったレストランでは名産の白ワインが出た。トイレに入ったところ、ここもトイレットペーパーが社会主義品質のものでなく西側品質のやわらかい紙になっていたが、失敬する人がいるらしく、トイレットホルダーには鍵がかけられていた。

・チェコスロヴァキアの現地ガイドさん(女性)は、昔の言葉で言えばグラマー(!)で目のやり場に困るような露出の多い服が印象に残っている。もちろん、それだけではなくツアーでお世話になった現地ガイドの中ではいちばん日本語が堪能であった。どこで日本語を勉強したかうかがったら、カレル大学で日本語を勉強して、日本にも行ったことがあるとのことで、そのとき京都で買ったという和風のお財布をうれしそうに見せてくれた。

・プラハでは社会主義体制の崩壊を受け、さっそく地下鉄の駅の名前が変わっており(Wikipediaで調べたら1990年2月(リンク))、行く前に送られてきたホテルリストで最寄駅が書いてあっても、社会主義時代の地図ではどこにあるのかわからなかったわけである。そのときのホテルはVyšehrad(スメタナ:連作交響詩「わが祖国」でおなじみのあそこ)駅そばであったが、旧称は「Gottwaldova」で、社会主義国時代初代大統領の悪名高い(とガイドさんが教えてくれた)Klement Gottwaldにちなむ名であった。

・初めて行ったブタペストはハンガリーが東欧諸国の中で経済の自由化が比較的早かったせいか、そのとき行った国の中では市場で売っている食料も豊富で、ホテル(ハイアット)も建物、サービスとも西側の水準とそう違いはないようであった。ただし自由化後、激しいインフレに見舞われ、飲み物代くらいしか両替しなかったのに札束が手渡された。

・これもはじめてのワルシャワは、懸命に復旧した旧市街と科学文化宮殿に象徴されるようなスターリン様式の建物が対照的であった。自由化に伴う治安の悪化で、薄暗い地下道は歩くのが少々不安であったが、なぜか路上では大量に積まれたブラジャーが売られており、社会主義国式百貨店にもランコムなど西側の化粧品も並んでいた。

こうして、ワルシャワからポーランド航空(LOT)で、途中モスクワで休憩し成田に向かった。東欧諸国だけでなく、そのころ湾岸戦争もイラクのクウェートへの侵攻により始まり、世の中激震・変動だらけであった、それが今日も続いているとは、そのころは知る由もない。
(この項終わり)
# by nem_ran | 2010-09-25 03:14 | 思い出話
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ベルリンおよびDDR(東ドイツ)についてのメモ


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