今回のベルリン滞在では、8月13日というベルリンの壁建設開始から50年にあたる日が入っており、ドイツ政府による壁の犠牲になった人たちの追悼行事をはじめ、いろんなところで行事、展示など開催されていた。
テレビも、もちろん壁50年関連の番組をいろいろやっていて、ドイツ語はよくわからないが画像を見ながら考えさせられるものがいろいろあった。RBB(ベルリン‐ブランデンブルグ放送)で、NHKで言えば「サンデースポーツ」にあたる番組でも「壁建設のヘルタ・ベルリンへの影響」と思われる番組をやっていた。
ZDFの”Morgenmagazin”(注1)というNHKで言えば「おはよう日本」にあたる番組でも8月第2週は、壁にちなんだ場所からの中継をやっていたが、テレビを見てて「お、ホテルからすぐだろ」(注2)という場所があったので、ただの野次馬根性で行ってきた。
(注1)どうしてARDとZDFが朝同じ映像なのがずっと謎だったのだが、ドイツ語版WikipediaをWeb翻訳の助けを借りて見たら、1週交代でやっている…ということでいいのか。
(注2)ベルリン滞在は旧東地区と西地区両方泊まることにしており、東地区はCasa Camper Berlinに泊まっていた。
○フリードリッヒ通り駅(Bahnhof Berlin Friedrichstraße)
限られた東西ベルリンの行き来ができる場所(東西ドイツ両国民と外国人)であった駅で、また駅のそばには「涙の宮殿」(Tränenpalast)と呼ばれた検問所があり、さまざまなドラマの舞台となった場所でもある。
壁建設50年に際しても、駅構内に東西の通路であった歴史の関連の展示があり、また「涙の宮殿」も取り壊しの是非の議論のあと周辺の工事を経て負の歴史の展示に向けて準備を始めているようであった。番組では、構内の展示で政治的理由などから東→西に出国させる際にもこの駅を使っていたという説明にあった、まさにその人を呼んできてインタビューをしていた。
ということで、ホテルから走って見に行ったら中継車があってケーブルをたどっていくと展示があった、
出国の査証や出国の様子。
こんな駅の構造になっていて、どうにか西側へ行こうとした人たちがいた。中央は中継に登場された方の書類。
DDRへの入口・出口はこの経路だったと示すピンクのラインが引かれていた。「涙の宮殿」の外観。
フリードリッヒ通り駅はこういう歴史を持つ駅だが、Sバーンが地上部分と地下部分がありという構造もあり、DDR時代に比べ格段にきれいになっているが構内が何か暗い(今回の節電で日本の能天気なマスコミが言っているような「エコ」とかいう問題ではないと思う)。
1990年7月に行ったときは、Sバーンは東西直通にまだなっておらず、フリードリッヒ通り駅の地上部分は行き止まりとなっていたことを思い出した。
なお、中継の内容はここ(リンク)から見ることができる。
テレビも、もちろん壁50年関連の番組をいろいろやっていて、ドイツ語はよくわからないが画像を見ながら考えさせられるものがいろいろあった。RBB(ベルリン‐ブランデンブルグ放送)で、NHKで言えば「サンデースポーツ」にあたる番組でも「壁建設のヘルタ・ベルリンへの影響」と思われる番組をやっていた。
ZDFの”Morgenmagazin”(注1)というNHKで言えば「おはよう日本」にあたる番組でも8月第2週は、壁にちなんだ場所からの中継をやっていたが、テレビを見てて「お、ホテルからすぐだろ」(注2)という場所があったので、ただの野次馬根性で行ってきた。
(注1)どうしてARDとZDFが朝同じ映像なのがずっと謎だったのだが、ドイツ語版WikipediaをWeb翻訳の助けを借りて見たら、1週交代でやっている…ということでいいのか。
(注2)ベルリン滞在は旧東地区と西地区両方泊まることにしており、東地区はCasa Camper Berlinに泊まっていた。
○フリードリッヒ通り駅(Bahnhof Berlin Friedrichstraße)
限られた東西ベルリンの行き来ができる場所(東西ドイツ両国民と外国人)であった駅で、また駅のそばには「涙の宮殿」(Tränenpalast)と呼ばれた検問所があり、さまざまなドラマの舞台となった場所でもある。
壁建設50年に際しても、駅構内に東西の通路であった歴史の関連の展示があり、また「涙の宮殿」も取り壊しの是非の議論のあと周辺の工事を経て負の歴史の展示に向けて準備を始めているようであった。番組では、構内の展示で政治的理由などから東→西に出国させる際にもこの駅を使っていたという説明にあった、まさにその人を呼んできてインタビューをしていた。
ということで、ホテルから走って見に行ったら中継車があってケーブルをたどっていくと展示があった、
出国の査証や出国の様子。
こんな駅の構造になっていて、どうにか西側へ行こうとした人たちがいた。中央は中継に登場された方の書類。
DDRへの入口・出口はこの経路だったと示すピンクのラインが引かれていた。「涙の宮殿」の外観。
フリードリッヒ通り駅はこういう歴史を持つ駅だが、Sバーンが地上部分と地下部分がありという構造もあり、DDR時代に比べ格段にきれいになっているが構内が何か暗い(今回の節電で日本の能天気なマスコミが言っているような「エコ」とかいう問題ではないと思う)。
1990年7月に行ったときは、Sバーンは東西直通にまだなっておらず、フリードリッヒ通り駅の地上部分は行き止まりとなっていたことを思い出した。
なお、中継の内容はここ(リンク)から見ることができる。
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by nem_ran
| 2011-08-29 00:43
| 交通機関